• 帝京vs星稜 1995年夏

    2022年08月28日

    苦境を乗り越えた強豪同士の決勝

    1995年の選手権大会は、選抜優勝の観音寺中央、同準優勝の銚子商、スラッガー福留(中日)を擁するPL学園など、大会前に優勝候補と目されたチームが準決勝を前に次々と敗退。決勝戦は平成に入って早くも春夏3度目となる優勝を狙う「東の横綱」帝京と石川県勢として初優勝を狙う伝統校・星稜の間で争われることとなった。

    帝京は春夏連続の甲子園出場。選抜ではV候補に上がりながらも、伊都の投手陣に打線が封じられてまさかの完封負け。挽回を図った前田監督が練習をさらに厳しくしたことによって3年生が4人を除いてすべて退部するという異常事態になった。また、東東京大会ではランナー3塁でヒットがでても進塁させなかったり(控え選手を経験させるため)、甲子園初戦の日南学園戦ではホームでのラフプレーが目立つなど、チーム内外で激しい逆風にさらされた。

    しかし、そんな厳しい状況にも関わらず、2年生主体となったチームは勝ち上がる。2年生白木と3年生本家の継投で試合を作ると、打線も3番吉野を中心に好調を維持。準々決勝では昨秋の東京大会で敗れていた創価・大木を攻略してリベンジを果たすと、準決勝では敦賀気比・内藤(ヤクルト)にわずか4安打に抑えられながら、少ないチャンスを活かして2-0と完封勝ち。気が付けば、6年ぶりの優勝は手に届くところまでやってきていた。

    一方、星稜は3季連続の甲子園出場。3年前にスラッガー松井秀喜(ヤンキース)を擁してV候補大本命だったチームと比較すると、スケールはそこまで大きくなかったが、2年生エース山本省吾(近鉄)を中心にしぶとく守り勝つ好チームであった。山本は全日本代表を経験して周りの速球派投手を見たことで、一時期フォームを上手投げにしてスピードアップを図ったこともあったが、春季北信越大会で敦賀気比にコールド敗退したことで、制球重視の投球に戻し、持ち味を取り戻した。

    甲子園では初戦で県岐阜商に完封勝ちすると、3回戦では打線が関西の好左腕・吉年(広島)を攻略。山下監督から「前半勝負だ」と言われた通り、2回に大型左腕の立ち上がりを攻めて4得点すると、このリードを山本が守り切って春に続く8強入りを果たした。その後も、金足農、智辯学園と打力に勝るチームを相手に競り勝ち、決勝に進出。左足首を痛めた山本をはじめ、満身創痍のナインだったが、大阪の医師団の治療のもと、懸命の戦いを続けていた。

    2年生エース攻略した東の横綱

    1995年夏決勝

    星稜

    1 2 3 4 5 6 7 8 9
    1 0 0 0 0 0 0 0 0 1
    0 0 2 0 0 0 0 1 × 3

    帝京

     

    星稜   山本

    帝京   白木

    帝京・前田監督、星稜・山下監督と両監督ともに経験豊富なベテラン監督ながら、決勝の経験では5度目の前田監督のほうが、初めての山下監督より分があったか。星稜打線は準決勝で15安打と調子を上げては来ていたが、長打力・得点力では帝京に分があるようにうつっており、星稜としてはとにかく山本を中心に守ってロースコアの展開に持ち込みたかった。

    帝京の先発は2年生右腕の白木。これが3連投となる剛腕は課題の立ち上がり、星稜打線につかまる、2番小坂がうまいセンター前ヒットで出塁すると、盗塁で2塁へ。2アウト後に4番信藤も基本に忠実なセンター返しを見せ、星稜が悲願の初優勝へ向けて1点を先制する。

    このリードを活かして先行逃げ切りを図りたい星稜。しかし、捕手の三浦も準々決勝で左ひざの靭帯を損傷していたように、スタメンの過半数をけが人が占めており、山下監督も「勝ち負けよりも前に、無事に試合が終わってほしい」と感じるほどの状況であった。

    すると、打者一巡して迎えた3回裏、山本が強打の帝京打線につかまる。先頭の9番白木が真ん中に入ったスライダーをセンターにはじき返すと、捕逸で二進。1番主将の田村が四球でつなぐと、1アウト後に3番吉野が入ってくる甘いスライダーを打って、左中間を破る逆転の2点タイムリーとし、帝京が早くも逆転に成功する。

    これまで、相手校の右打者が山本のインサイド低めに入ってくるスライダーの苦戦していたが、この日の帝京はベースやや後ろに立ち、多少体を開き気味にしてでも打つことでこのボールに対応。このあたりはさすが百戦錬磨の前田監督と帝京打線である。

    ビハインドを背負った星稜は立ち直った白木の剛球の前に苦戦。恵まれた体格から繰り出す速球でバッターのバットを押し込み、2年生捕手の坂本も狙われていることがわかっていながらも、その威力を信じて要求し続ける。星稜は4回に2アウト1,2塁、8回に2アウト2,3塁と塁上を賑わせたが、カーブで緩急を整えたうえで最後は直球勝負に出た帝京バッテリーが上回り、得点をあげることができない。

    それでも星稜の内外野は懸命の守りで2年生エースを支える。5回裏には無死1,2塁のピンチを背負うも、相手の犠打とスクイズを素早いフィールディングで失敗させると、6回にはファースト信藤が走者と接触しながら気迫のプレーで併殺をもぎ取る。

    試合は1-2とビハインドながら、星稜にとっては試合前に想定していたロースコアの展開で進む。しかし、終盤大事な場面で得点を挙げたのは帝京だった。8回裏、5番本家がうまい流し打ちで出塁すると、盗塁でセカンドを奪う。捕手が怪我をしている状況で、黙ってそれを見逃す帝京ではない。2アウト後に6番仲村が左中間フェンス直撃のタイムリーを放ち、大きな大きな1点を追加した。

    リードを2点に広げてもらった白木-坂本の2年生バッテリーは最後まで直球主体の投球で星稜打線を圧倒。ともに2年生とは思えない落ち着きぶりで、27個目のアウトを奪い、様々な逆風にさらされた帝京が6年ぶり2度目の夏の栄冠に輝いたのだった。

     

    帝京はこれで平成にはいって7年間で春夏通算3度目となる優勝を達成。スタメンの4人以外は、ベンチ、スタンドを見回しても一人も3年生がいないという異常事態であったにも関わらず、一気に頂点まで上り詰めた。まだ激しい練習が全然OKだった時代であり、監督の厳しさだけでなく、選手同士でもこれでもかというぐらい厳しく接し合ったハングリーさが頂点を奪い取る原動力となった。

    よく5打席連続敬遠で勝利した明徳義塾がヒールだと言われるが、本物のヒールはこれだけの状況でも勝ち続けた平成7年の帝京だったのではと感じることがある。平成初期の甲子園は西日本勢の優勝が相次いだが、その中に合って3度頂点にたった帝京の存在感は強烈に光っていた。

    ただ、この翌年、白木-坂本のバッテリーを擁した帝京は神宮を制覇しながら、翌年の選抜では岡山城東に初戦でサヨナラ負け。ジェットコースターのような2年間を経て、「帝京時代」はいったん小休止を迎えることとなる。

     

    一方、星稜も「怪我」という逆境にたたされながら、史上最高成績の準優勝を達成した姿は高校野球ファンの感動を呼んだ。この甲子園大会中に選手たちの故障を見てくれた医師団に感謝の手紙を送ったところ、そのお礼にと再び選手たちの状態を医師たちが見に来てくれたことはあまり知られていないが、山下監督の心も震わすエピソードとなったそうだ。

    また、元来、雪の影響で打撃練習が多くできない星稜は、「投手中心に先制した得点を守り切る」という手堅い野球が持ち味であった。3年前の松井秀喜を擁して神宮を制覇した時のチームよりも、スケールでは劣ったかもしれないが、なにかこの年の方が山下監督が作り上げてきた「THE・星稜」と呼べるチームだったのかもしれない。

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    ⚾【平成7年】帝京 対 星稜【高校野球・決勝】 – YouTube