- 甲子園では各地区ごとに好不調が如実に表れるのが、見ているファンにとって興味を引くところだ。好調な地区では、一度勝ちだすと、地区内で「うちが一番先に負けられない」との意識が出てきて、簡単には負けなくなる相乗効果を生み出すことがある。そんな相乗効果で各地区ごとに無双状態になった大会は何年の大会だったが、振り返っていきたい。最終回は南北北海道。
第76回大会(1994年)
日本の最北端に位置し、冬は雪に閉ざされる北国・北海道。高校野球界においては、最も不利な練習環境に置かれる地区だが、2004年~2006年にかけて駒大苫小牧が黄金期を築き、2015年選抜・2016年夏には東海大四と北海がそれぞれ準優勝を飾るなど、21世紀の甲子園で存在感を放ってきた。今や、北海道が弱小地区という意識は日本国民にはほどんどないだろう。
しかし、そこから少し時計の針をさかのぼり、昭和後期から平成序盤を振り返ると、北海道勢は実に苦しい時代を過ごしてきたのだ。1986年に東海大四がエース五十嵐(ロッテ)の活躍で1回戦を突破したのを最後に、夏の甲子園の勝利から遠ざかる。なんと6年連続で南北代表ともに初戦敗退の憂き目にあうのだ。数字で見ると実感が乏しいかもしれないが、当時の応援していた人から見るととんでもなく長い時間だったことだろう。それだけ冬の時代が続いていたのだ。
だが、前年に当たる1993年夏に旭川大・東海大四が2校ともそろって初戦を突破すると風向きは変わり始める。1993年春にはヒグマ打線の愛称で親しまれた駒大岩見沢が4強入りを果たしており、北海道勢の機運は盛り上がり始めていた。そして、1994年夏、北海道のチームによる快進撃が幕を開ける。先進的な指導の北海・大西監督、全国を意識したパワー野球を志す砂川北・佐藤茂監督という亮名称に率いられたチームが見事に結果を残したのだ。
北海(南北海道代表)

1回戦 〇6-2 宇和島東
2回戦 〇10-1 砂川北
3回戦 〇14-5 小松島西
準々決勝 ●3-6 佐賀商
北海は当時史上最多となる31回目の甲子園出場。名将・大西監督に率いられ、2年ぶりの甲子園であった。フルスイングが魅力の打線は南北海道大会決勝で9番打者がバックスクリーンへ放り込んだようにパワーで他校より抜きんでていた。その源は、重量挙げでバルセロナ五輪の代表候補だった林部長のもとで行われた筋トレにある。部位ごとで細かく内容を変え、野球に必要な筋肉を鍛えたことで、効果的なパワーアップに成功。もともと練習量が多いチームだったが、質も加わって本物の力を手にした。
一方、守りに関してはスローカーブで打者を幻惑する2年生エース岡崎が軸。ストレートとの緩急差があるため、初見で攻略するのはなかなか難しい。さらに、そのエースを助ける野手陣は、けん制のフォーメーションを鍛え、事前にピンチの芽を摘み取る機会も多かった。当時、粗削りな印象も多かった北海道にあって、この年の北海の強さにはしっかりとした裏付けがあったのだ。
迎えた1回戦は大会2日目の第1試合。しかも、相手は牛鬼打線の異名を持つ、名将・上甲監督が率いる宇和島東であった。1988年の選抜で初出場初優勝を達成すると、1993年から1994年にかけては4季連続での甲子園出場を果たす。4番捕手の橋本(ロッテ)を中心に、2年生の3番宮出(ヤクルト)、長打もある1番松瀬など打線の強力さは相変わらず。投手陣は前年までのエース平井(オリックス)が抜けたものの、エース岩井を中心に松瀬、鎌田ら野手兼任の投手も皆140キロの速球(当時の高校球界では最高速クラス)を投じ、分厚い陣容を形成していた。
この難敵に対し、30年ぶりの夏の甲子園1勝を狙う北海は、岡崎-三橋のバッテリーが巧みな投球術で宇和島東の打者を翻弄する。カーブを見せ球にしたかと思えば、相手が直球を狙ってきたところではカーブで裏をかく。四国随一の強打線に対し、6回まで先行されたものの、許した得点は2点のみ。さらに、必殺のけん制タッチアウトも奪い、いよいよ流れは北海に傾く。
すると、8回表、腰痛で本来の調子が出ない宇和島東・岩井に北海の強力打線が襲い掛かる。疲労から球威も落ちていたのだろう。北海の強力クリーンナップである3番斉藤、4番佐藤に連打され、ピンチを迎えると、ここでこの日ノーヒットの5番三橋にサード強襲のタイムリーヒットを浴びついに同点に追いつかれる。
9回に入り、いよいよ厳しい状態となった岩井はツーアウト満塁のピンチを招く。ここでピッチャー交代の選択肢もあったが、上甲監督はエースと心中を決意。上甲さんのエースでぎりぎりまで押し通すスタイルは小川(昭和63年優勝時エース)、福井(2004年済美で春優勝、夏準優勝)、安楽(2,013年春準優勝)と時代を超えても変わらないものがあった。しかし、結果は押し出しフォアボールとなり、その後さらに満塁からの初球を走者一掃のタイムリーを打たれて決定的な4点しってん。北海打線の見事なまでの集中打だった。
大会2日目にして、西日本最強と目されたチームが敗退。この衝撃はすさまじく、そして、北海には勢いを与えた。2回戦は砂川北との南北北海道対決に10-1で圧勝。さらに、3回戦ではまたも四国勢の小松島西を相手に14-5と2試合連続の2桁得点で沈めてみせた。2回戦は相手のミスに機動力も絡めてそつなく加点し、3回戦では小松島西・中瀬の速球に狙いを絞って、鋭くセンター方向へ打ち返した。初戦でV候補を下したことで硬さが取れ、2回戦からは多くの攻撃バリエーションを出すことができた。
ただ、準々決勝ではここまで3完投のエース岡崎を温存せざるを得ず、代わりに先発した鈴木の立ち上がりをつかれ、序盤からリズムに乗れなかった。6点ビハインドの中盤に3点を返したが、佐賀商・峯もまた、ブレーキの効いたカーブを武器にする好投手であり、追いつくまでには至らなかった。ただ、この大会で北海の示した存在感は素晴らしく、波乱含みの展開となった1994年夏の甲子園を象徴する存在だったと言える。と同時に、北海道勢の不振を完全に払しょくした大会にもなった。
砂川北(北北海道代表)

1回戦 〇6-5 江の川
2回戦 ●1-10 北海
佐藤茂富監督に率いられ、昭和後期から甲子園にたびたび姿を現すようになった砂川北。しかし、佐藤監督にとって甲子園は苦い思い出の残る場所であった。
1984年選抜。本来なら北海道大会準優勝で選出される予定ではなかったところ、優勝校の不祥事があり、繰り上げでの出場が決まったのだ。出場の喜びはあったものの、準備が整いきらない中での本番でもあった。そこに加えて、なんと1回戦の相手はあのKKコンビを擁するPL学園である(当時、KKは2年生)。PL学園は、桑田ではなく、控え投手を先発させたが、そんなことでは埋まらないほどの差が両チームの間にはあった。大会新記録となる6ホームランを浴び、7-18の大敗。出た喜びが吹っ飛ぶほど、ショックの残る敗戦であり、地元では心無い声を浴びることもあった。
しかし、この敗戦を機に佐藤監督は、全国で勝つにはパワーをつけなくてはいけないと指導方針を切り替えていく。過疎の町でなかなか選手も集まりにくい環境ではあったが、筋トレ・食トレも行いながらパワーをつけていく。すると、1992年の選手権では、1回戦で後に8強入りする北陸を相手に、一時4-0と試合をリード。終盤に守乱から無念の逆転負けは喫したものの、全国で戦える手ごたえを感じた一戦でもあった。
迎えた1994年夏。エース青柳を強力打線が支え、北北海道大会を順調に勝ち上がる。準決勝の北見緑陵戦こそ、6-5ときわどい勝利だったが、その他は危なげない戦いで2年ぶりの選手権出場を決めた。1年生の時に甲子園を経験している最上級生が、最後の夏に再び聖地に戻ってきたのだ。
迎えた甲子園の初戦は、島根・江の川が相手。過去には、名捕手・谷繁(中日)を擁してベスト8入りした実績もある伝統校だが、この年の江の川には並々ならぬ思いがあった。実は、同年の選抜大会で、金沢・中野に史上二人目となる完全試合を食らっていたのだ。ゆえに江の川ナインのリベンジへの思いはひとしおで、まずは出塁、そして、初ヒットからの勝利を強く望んでいたのだ。
しかし、試合が始まると、砂川北の長打攻勢が江の川を飲み込んでいく。2番富沢のホームランが飛び出すなど、江の川の浜崎を攻めたて、3得点。さらに、2年前は課題だった守備でも、2塁でけん制アウトを奪い、成長した姿を見せていた。佐藤監督が鍛え上げてきた強力打線がついに日の目を見、8回裏には機動力を絡めてさらに2点を追加。5-1と4点リードで9回表を迎えた。
だが、初勝利を狙う砂川北の前に試練が訪れる。8回まで冷静なピッチングだったエース青柳も、勝利を目の前にして少し我を失ったか。先頭の5番八部野に3塁打を浴びると、代打・岡村のサード強襲ヒットでまず1点。さらに、四球を挟んで9番岡下、1番佐古とタイムリーが続き、ついに5-4と1点差まで迫ってくる。青柳もこの場面は少しストライクをそろえすぎた嫌いがあった。さらに、2番松田の投手ゴロで飛び出した2塁ランナーを挟もうとしている間に、3塁にいた岡下がホームイン!土壇場で試合は振り出しに戻ることとなった。
江の川にとっては、選抜でのうっぷんも晴らすような奇跡の同点劇。佐藤監督としてもまさかの思いだっただろう。ただ、この窮地を救ったのは、鍛え上げてきた打力であった。9回裏、疲れの見える浜崎から四死球と失策で満塁のチャンスをつかむと、最後は途中出場ですでにヒットを放っていた3番武井がショートを強襲するサヨナラタイムリー!佐藤監督にとっては念願となる甲子園1勝を手にしたのだった。
その後、2回戦では北海との北海道対決に敗れたが、この年の砂川北の活躍は、北国の強さを見せつけるには十分なものであった。その後、翌年の1995年には旭川実が強豪を次々打ち破って8強へ進出。さらに、砂川北にいた佐藤監督は鵡川に転任し、21世紀枠での出場を含め3度の選抜出場を果たすこととなる。
こうして、北海道勢はV字回復を果たすと、先述した駒大苫小牧の活躍に繋がっていくのだが、その立ち直りのきっかけとなったのが、初戦でV候補を下し、史上唯一となる北海道対決も実現した1994年の夏だったのではないだろうか。


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