【好投手列伝】大阪府篇記憶に残る平成の名投手 1/5 – 世界一の甲子園ブログ (kosien.jp)
【好投手列伝】大阪府篇記憶に残る平成の名投手 3/5 – 世界一の甲子園ブログ (kosien.jp)
【好投手列伝】大阪府篇記憶に残る平成の名投手 4/5 – 世界一の甲子園ブログ (kosien.jp)
【好投手列伝】大阪府篇記憶に残る平成の名投手 5/5 – 世界一の甲子園ブログ (kosien.jp)
嘉瀬敏弘(北陽→オリックス)
北陽のエース左腕として春夏連続出場に導いた嘉瀬敏弘。投手としてはややあんこ型の体型ながら、そのぶんスタミナは十分で、大事な試合はほぼ一人で投げ抜いた。選抜では桐蔭学園の強力打線を完封して自身甲子園初勝利。夏はPL学園や近大付ら強豪がひしめく中を勝ち上がり、甲子園でも2試合を勝ち上がった。
3回戦は金村(日本ハム)擁する仙台育英を相手に9回2アウトから3連続タイムリーで3点差を追いつく粘りを見せたが、最後は嘉瀬の痛烈な打球が投手ライナーとなって反撃ストップ。その裏にサヨナラ負けを喫し、春夏ともに8強を前に力尽きた。
[プロ 野球 ハイライト] 【春選抜】1994北陽VS桐蔭学園 – YouTube
椎葉厚生(大阪学院大高)
平成に入って減少傾向だった右サイド投手。そんな流れの中で、流麗な右サイドのフォームで選抜を沸かせたのが大阪学院大高の椎葉であった。初戦は強豪・横浜を相手にストライクゾーンの横幅を広く使った投球で的を絞らせずに4安打1失点で完投。江夏の母校としても話題となった大阪学院大に甲子園初勝利をもたらし、勢いそのままに8強へ勝ち上がった。
前川勝彦(PL学園→近鉄)
2年春夏、3年夏と3度甲子園のマウンドを踏んだ本格派左腕。特に3年の夏は激戦の大阪大会を一人で投げ抜く心身のタフさを見せ、大阪桐蔭・上宮と強豪相手に逆転勝ちを収めた。甲子園では初戦で旭川工を3安打完封で好発進するが、足首のけがによる不調もあって3回戦で高陽東に6-7と惜敗した。四死球でランナーをためて犠飛や押し出しなどで失点し、被安打7で7点を失うことに。未来の近鉄のエースにとってはほろ苦い結果となった。
高陽東vsPL学園 1996年夏 – 世界一の甲子園ブログ (kosien.jp)
甲子園初の女性実況中継 PL学園 前川勝彦 旭川工を完封 1996年 – YouTube
山田真介(上宮→巨人)
新チーム結成から練習試合も含めて秋の戦いを駆け抜けた1997年度の上宮。渡辺(ロッテ)、三木(近鉄)、多井ら強力打線が原動力だったが、エース山田の安定感もまた強さの要因であった。集中打で逆転勝ちした横浜商戦、9回裏に3点差を追いついた育英戦と失点をしつつも、粘りの投球で勝利を呼び込んだ。それだけに最も調子のよかった準決勝の天理戦で1-2と惜敗してしまったのは皮肉な結果であった。
上宮vs育英 1997年選抜 – 世界一の甲子園ブログ (kosien.jp)
[プロ 野球 ハイライト] 【選抜高校野球】 1997 第69回 上宮VS明徳義塾 – YouTube
上重聡(PL学園)
あの伝説の延長17回の死闘で横浜・松坂(西武)と投げ合ったPL学園のエースだ。春から夏にかけて腕の振り出しの角度を落とし、右スリークオーター気味にしたことで制球は安定。激戦の大阪大会を制すると、甲子園では八千代松陰・多田野(日本ハム)や佐賀学園・江口といった好投手に投げ勝った。
迎えた横浜との大一番では延長に入ってランナーを背負いながらも、バント飛球のダイビングキャッチなどでピンチの芽を摘み取り、失点を許さなかった。実力もさることながら、チームの雰囲気を良くすることを心掛ける点も好感が持てた。松坂が最もライバル視したと言われた投手は、名実ともにPLのエースにふさわしい選手だった。
PL学園vs明徳義塾 1998年選抜 – 世界一の甲子園ブログ (kosien.jp)
久保康友(関大一→ロッテ)
1998年の記念大会で伝統校・関大一を選抜準優勝、夏ベスト8に導いたエース右腕。140キロ台の速球と決め球のスライダーという持ち球もさることながら、相手の狙い球を外す配球に長け、捕手・西本との息の合ったバッテリーが関大一躍進の原動力だった。1998年夏の本大会中は、横浜を倒すのはPLでなく関大一なのではないかという声もちらほら上がっていた。
しかし、準々決勝は前の試合の横浜vsPLが思いのほか長引き、明徳との試合で後攻めをとっていた関大一は何度も久保が投球練習に行って疲労がたまることとなった。結果、初回に6番松元に3ランを浴びるなど、11失点で大敗。本調子での久保vs明徳打線を見てみたかった。
⚾【平成10年】1998.熱闘第33話 関大一 vs 尽誠学園【高校野球】 – YouTube
植山幸亮(PL学園)
あの伝説の横浜vsPL学園の死闘の第3章でPLのマウンドを守った長身エース。一つ上の先輩の上重や稲田のような完成度の高さはないが、ボールの質自体は植山の方が上だったか。初戦で実現した横浜戦に6-5と薄氷の勝利を収めると、準々決勝では東邦・朝倉(中日)らを打ち砕いて波に乗る強打の平安打線をわずか2安打で完封。久々の優勝に向け、視界良好かと思われた。
しかし、準決勝の沖縄尚学戦は疲労も考慮して控え投手の西野が先発。常に先手を取られる展開となり、打線が粘って追いついたが、流れを引き寄せきることはできなかった。結果、延長12回に踏ん張っていた植山が2点を奪われて万事休す。昭和62年の春夏連覇を最後に優勝から遠ざかっていた高校球界の王者にとって、この年が最も優勝する可能性が高かった大会だったのではないだろうか。
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