柳川vs浦和学院 2000年夏

2000年

東西のドクターK、激突

2000年夏の甲子園は強打を誇る智辯和歌山が大会前から優勝候補筆頭に挙げられていた。その智辯和歌山を倒す可能性のあるチームとして横浜、PL学園、中京大中京、明徳義塾などが挙げられていたが、今回対戦する2校もその候補に挙げられていた。2回戦で当たるにはもったいない対決であった。

あの夏プレーバック 2000年決勝・浦学vs共栄 世紀の投手戦 ...

浦和学院は森士監督が就任し、平成になってからも安定して甲子園に出場。1998年の選抜ではV候補の沖縄水産を下して8強入りするなど、関東屈指の強豪校として認知されていた。しかし、この年は県内に関東3羽ガラスと呼ばれた好投手・中里(中日)を擁する春日部共栄が存在し、浦和学院としても4年ぶりの夏出場に向けて高いハードルとなっていた。

埼玉大会決勝ではこの両校が順当に勝ち上がって激突。県内の高校球史で語り継がれる熱戦となった試合は、延長10回裏に3番丸山のサヨナラタイムリーが飛び出し、浦学が久々の出場権を獲得した。甲子園では初戦で八幡商と対戦。打線が八幡商の左腕・西川(西武)から10安打を放ちながらも2点どまりだったが、坂元がスライダーを武器に19奪三振の快投を演じ、2-1の点差以上に圧倒した内容で1回戦を突破した。

大会No.1投手(2000年選抜) 香月良太(柳川) – 世界一の甲子園 ...

一方、柳川は昨秋の九州大会を制し、選抜でも8強入りした、この世代の「九州最強チーム」である。エース香月は140キロ台をコンスタントにマークする直球とカーブを武器に選抜では3試合で33奪三振を記録。打線も松尾・永瀬・犬塚ら強打者が並び、選抜では智辯和歌山に0-1と惜敗したものの、その実力に疑いの余地はなかった。

ところが、夏を前に末次監督が不祥事で監督を辞任するアクシデントが発生。新しく就任した平田監督は選手の名前を覚えるところから始めないといけなかったが、選手たちは泰然自若としたプレーで県内を圧倒的に勝ち抜いて春夏連続出場を達成。エース香月も新球・ナックルを武器にさらなるレベルアップを果たし、初戦は旭川大を9-2と圧倒して順調なスタートを切った。

立ち上がりに泣いた関東屈指の右腕

2000年夏2回戦

柳川

1 2 3 4 5 6 7 8 9
4 0 0 0 1 0 0 0 0 5
1 0 0 0 0 0 0 0 0 1

浦和学院

 

柳川     香月

浦和学院   坂元

ともに三振を奪える球種を持った好投手同士の対戦。特に浦和学院・坂元のスライダーはストライクゾーン内で変化するため、見送っても振ってもストライクにされるという厄介なボールであった。

しかし、立ち上がり、その伝家の宝刀の制球が定まらない。1番池田を三振に取って一見順調なスタートを切ったかに見えたが、このスキを九州屈指の重量打線が見逃すはずがない。

1アウトから2番宮城が高めの速球をはじき返して右中間を破る3塁打にすると、3番松尾は高めに浮いたスライダーをライトに打ち返して1点を先制。さらに松尾が動揺する浦和学院バッテリーから盗塁を決めると、4番永瀬、6番胡子とタイムリーで畳みかけて、この回一挙4点を先制する。

好投手同士の投げあいが期待された試合は思わぬスタートとなる。1回裏、香月も球場の異様な空気に影響されたか、1番榎本のファーストゴロエラーと2番山之内の内野安打で走者をため、4番大河原のショートゴロの間に1点を失う。しかし、2回以降は落ち着きを取り戻し、ナックルを武器に三振を積み上げていく。

一方、課題の立ち上がりを突かれた坂元は2回、3回と2安打を浴びるなど、初戦ほどの調子ではない。しかし、4回以降は徐々にスライダーを決まり始めると三振を量産し始める。5回に暴投で1点を失ったものの、柳川の好打者たちがバットにボールが当たらない状態になる。1回戦で19三振を奪って周囲を驚かせたが。個人的にはこの日の柳川相手の16奪三振の方が強烈であった。

しかし、やはり4点のビハインドは香月相手ではあまりに重かったか。香月は三振数でこそ13個と坂元に及ばなかったものの、2回以降はあ浦和学院打線を4安打無失点に抑え、1失点で完投勝ち。注目の好投手対決を制し、3回戦進出を決めた。

 

柳川はその後、3回戦で瀬戸内を大差で下し、8強に進出。準々決勝で念願の智辯和歌山との対戦を引き当てた。しかし、4点のリードを奪って迎えた終盤に、エース香月のまめが敗れるアクシデントが発生。武内(ヤクルト)、山野にホームランを浴びると、延長11回についに力尽きてサヨナラ負けを喫した。柳川史上最強の戦力を誇ったチームだったが、春夏とも史上最高の打撃成績を残した智辯和歌山の前に屈することとなった。

一方、浦和学院としては初回の失点があまりに重かったか。坂元は終盤は完全に無双状態だっただけに、もったいない失点であった。しかし、浦和学院はその後も、好投手・須永(日本ハム)を輩出するなど、コンスタントに甲子園に出場。2002年から2008年まで7年連続で春夏どちらかの大会に出場しており、「3年生を大事にする」という森士監督のポリシー通り、すべての学年に最終学年で甲子園の土を踏ませることができた。

智辯和歌山vs柳川 2000年夏 – 世界一の甲子園ブログ (kosien.jp)

【好投手列伝】埼玉県篇記憶に残る平成の名投手 2/5 – 世界一の甲子園ブログ (kosien.jp)

【好投手列伝】福岡県篇記憶に残る平成の名投手 2/3 – 世界一の甲子園ブログ (kosien.jp)

コメント

タイトルとURLをコピーしました